多細胞生物の病
有機野菜を育てていると健康への意識が高い人と出会うことが多い。 昔病を患った人、高齢の人、子供がアレルギーをもっている母親など
健康意識が高い理由は様々。共通するのはもし病気がなければこの人たちは私の前にはあらわれなかっただろうし、きっと生き方も違ったということ。。
そんなお客さんたちと話していると。病は個人にとっては悲劇的なことであっても、それ自体は悪ではないのだと気づかされる。
病と共存する姿、子供を守ろうとする姿が言葉の節々に現れることがあって 自分の中で何かが変わることがある。その人たちの存在は確実に周囲の人の意識を変えている。
IPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授は病気がなくなり、それぞれが天授を全うできるような社会をつくりたいと、テレビで話していた。
万能細胞や万能薬、健康になれるサプリメントなどがもてはやされる現代では、きっとそのコメントも夢のようなものとして映るのかもしれない。
そもそも天授というものは細胞の生存限界まで生きることではないはずで、その人に与えられた命を全うすることであり、時間や空間的な広がりとは無関係である。
仮にテロメアがなくなるまで生き続けられるようになることは私にはむしろ悲劇的な側面を持っているような気がする。
根本的な話になるが 病を持たない生き物はいるのだろうか? いない。なぜか?
病で死ぬことも生き物の仕事の1つだからだ。
もし病がなくなったらどうなるだろうか。敢えて極端な例をあげるとするといくらでも食べ続けることができるのに、全く太らないサプリができて、全人類が摂取したらどうなるか。
エサとなる地球上の植物や動物がなくなるまで食欲が続けば、食糧となる種や環境が消滅していく。食物連鎖の中で人間に与えられている食べ物は決まっている。 それを逸脱して過剰にエネルギーを蓄えると病になる。肥満や成人病がそれだ。 こうして考えるとそれらの病が全体のシステム(生態系)を維持する正常なシステムの1つなのだと思える。
このようなフィードバック現象は個体レベルでも起きる。過剰な運動をすると筋肉痛になる、これは筋細胞が破壊され、それを修復し、さらに筋細胞を増やすために傷みが生じる。これによって筋力が増える。この場合、全体のシステム(生体)を維持しさらに強化している。ここでもし最初の筋細胞が損傷しなければ、筋肉痛は生じないが、筋肉が増えることもなくなる。
つまり、いずれの場合も、一個体、一細胞の死は、全体のシステムへのシグナルとなり、それを発端にシステムを健全化する方向に反応が起こっていく。
では、その死がなかったら。一個体の傷みや死はなくなるが、全体の死や脆弱化のリスクが現れるだろう。これは私たちの身体や生態系が、個々の細胞/生物からなる組織的な1つの共生体であることの表れだと考られる。
共生しない細胞にとって、一つの細胞の死はそれ自体で完結し、組織的な意味をもたない。それは単細胞生物に見て取れる。組織ではなく、個体としていきている。がん細胞は実はこの単細胞生物に近い生き方をする。がん細胞は他の細胞に回るべき養分を制限なく吸収し、存在する臓器の機能に関わらず増殖だけを行う。最終的にはその人体に死をもたらす。ただがん細胞だけ取り出せば、シャーレの中で培養し続けることが可能である。組織の生と個細胞の生にずれが生じた結果の現象だ。
このことから単細胞生物と多細胞生物とでは生きることの定義自体が異なることがわかる。 私たちは私たちの生体がそうであるように、生きることを多細胞生物的に解釈するべきである。
つまり個体の死は新陳代謝。個体の病は、全体のシステムへのシグナルであり、 全体の死を回避するための対応を喚起するものとなる。 今病の人がいたら。その人は全体の死に対する危険信号を命を持って鳴らしていることになる、ではその警笛(病)を止める方法とは何だろうか。
薬を使って病を傷みから切り離したり、表面的には分からなくすることができる、だが そればかりやっきになっていては病というシグナルがなくなることはなく、むしろ違う音やカタチのシグナルとして顕在化してくるだろう。
病気を薬などで治療することは悪いことではないが、最終的には病になった人からのシグナルを受け取り、全体(社会)としての生き方を考え直すことが、本来あるべきシステムの健全化のシナリオであるはず。 わかりやすいのが生活習慣病。その名の通り私たちの暮し方が変わらなければこの病から逃れることはできない。精神疾患などもそれらの類のように思う。それらを変えられる可能性を持つのは他でもない、病になった人。
病人は社会的弱者ではなく全体の健全化という仕事を担う存在。その意味ではある程度の年齢になり病になることは理に適っていると思える。 社会という全体と個体の死をとらえることのできる年齢になっているはずだからだ。 しかし現代の消費文化に煽られ、どんな年齢の人も過剰な健康志向や行き過ぎた延命治療などどこか単細胞としての生き方に似た風潮を受け入れてきている。 どんな生き方、どんな死方もできるようになった今、何者として生きるのかが問われているように感じる。
多細胞生物として生きていける社会を私たちの身体は望んでいるように思う